血の匂いがした。 その洞窟はまるで−いや、まさしく獣の巣穴だった。 射し込む日の光を避けた奥にそれはいた。 150年を修羅の内に生きた男が思わず立ちつくしたのは初めてだったかもしれない。 「ガキを産んでやがったとは・・・」 背に落日をうけて燃え上がる紅いジャケットを、闇の中から黒い母豹の紅い目がにらみつけていた。 「最初から、それが目的だったのか」 男がずいと歩み寄ると、女はまだ自由にならぬ体で必死に何かを隠そうとした。 女・・・?美しい容貌の彼は一見して性別がわかりにくい。無駄な脂肪のない鞭のような痩躯を見た者ならば、かろうじて男性と判断するだろう。 だが今は、紛れもなく子を守ろうとする母だった。 「それをよこしな」 男が手をのばした。必死の抵抗を試みる弱り切った体は男の右腕の一振りであっけなく吹っ飛んだ。 母豹は血を吐くような叫びをあげた。 赤ん坊は泣かなかった。愛らしい顔で不思議そうに男を見上げていた。獣の−紅い目で。 ソルはジャケットを脱ごうとし、一瞬迷って黒いアンダーシャツの方を脱ぎそれで赤ん坊をくるんだ。 「ソル?!何をするつもりだ。」 ようやく身を起こしかけたテスタメントが叫んだ。「それは私の子だ!私のものだ!」 「お前にこのガキはわたせねえ」 背をむけて歩み去ろうとするソルの足にテスタメントがしがみついた。 「その子はギアだ!私と共にギアの王国に行くのだ。薄汚れた人間にはさわらせない」 ソルが首だけで振り返った。 「そして、ジャスティスの贄にするのか?」 ソルは容赦なくテスタメントを一蹴した。 「ギアは・・・殺す。」 夜の森に子を奪われた母の叫びがいつまでも響いていた。 ソルは腕の中で眠る赤ん坊をまじまじと見つめた。 少なくとも外見は普通の人間の赤ん坊に見える。特に変わった波動も今は感じない。 瞳は確かに紅かった。しかし数は多くはないがこの時代、人間にも赤やバラ色の瞳を持つ者はいる。 これは・・・ギアか?それとも・・・。問答無用でさらってはきたものの・・・ソルは、迷っていた。 正確には「ギアという生き物」は存在しない。ギア細胞の移植によって変化−進化、とソルは言いたくなかった−した生命体を総称してギアと呼んでいるのだ。 ギア化した人間同士の間に生まれた一代雑種・・・ソルの知る限りこのような前例はない。 生殖細胞はギア細胞の移植によってどのような影響を受けるのか・・・精子のギア化?卵子のギア化?ソルは身震いした。 ギア細胞と遺伝との関係はまだ解明されてない部分が多い。 この赤ん坊は初の純粋ギアであるかもしれないと同時に、只の人間である可能性も、遺伝子の中に標準的な部分と変化(つまりギア化だ)した部分を併せ持つ、いわばハーフと言えるものである可能性もあった。 赤ん坊を研究室に持ち込んで生体実験を行えばあるいは解明できるかもしれない。だが・・・それをするくらいならひと思いにここで殺してやる方がこの赤ん坊のためかもしれない。 ソルは赤ん坊の首を支えていた指をほんの少しずらし、その喉に親指をあてた。 ただこの指にわずかな力を加えさえすれば、それで終わる、苦しむこともない。 なんと脆弱で、なんと頼りなく、なんと無垢な・・・・ ふと赤ん坊がみじろぎし、ふわあっと小さな欠伸をした。はっとしてずらしたソルの指が赤ん坊の頬にふれた。 頬をつつかれた赤ん坊はソルの指先を乳首と勘違いして吸い付こうとした。 その口唇はソルの指先よりまだ小さい。 「くそうっ」 ソルは呻いた。 「化け物だったら化け物の姿で生まれて来いよ・・・ヘヴィだぜ」 ソルは立ち上がり赤ん坊を抱えたまま歩き出した。森を抜けた先の山間には小さな集落がある。こいつ自身に決めさせよう、そうソルは決めた。 狼に喰われるか、村人に拾われるか。人として育つか、ギアとして成長するか。もしこれが救われるべき生命ならば、神よ・・・・ もしもギアであったのなら、人に仇なすものであったのなら、そのときには再び俺がこの手でとどめを刺しに戻ってこよう。 それが父親としてのソルの結論だった。 *****************
物語は数ヶ月前にさかのぼる。 聖戦が終結し3年近い日が過ぎていた。 未だジャスティスは封印されたまま、復活計画は遅々として進みまない。 テスタメントは焦燥に身を焼かれる思いでいる。 洗脳されているとはいえ、彼は記憶や意識、判断力までをも失っているわけではない。勤勉で好奇心が強いというのがテスタメントの本来の性質であり、それはギアとなり洗脳を受けていても変わるものではない。 地球を汚す人間を駆逐し新しいギアの世界を創らなくてはならない−もちろんそれは洗脳によって植え付けられた目標だが−そのためにテスタメントはジャスティスの部下として指示に従う他に、独自の考えに基づいても活動してきた。 ソル・・・強力且つ自立性を持つ貴重な人間型ギア。 ギアの王国のためには、彼は是非陣営に加わって欲しい。洗脳下のテスタメントにとってはそれは極真面目な切なる願いだ。 仲間になってくれるよう、テスタメントはソルに繰り返し懇願してきた。だがソルは頑としてそれをはねつけてきた。 「テメェの顔にゃ、うんざりだ。」 「テメエもたいがいしつけぇな」 「ギアはぶっ殺す」そればかりを繰り返すソルだが、不思議なことにテスタメントにとどめを刺そうとしてはいない。 テスタメントは自分の戦闘能力の程度を正しく自覚している。差し違える覚悟でどこまでいけるか・・・恐らく本気のソルにはかなわないだろう。 もしや裏切り者のソルは、自分にまで同胞たるギアを裏切ることを期待しているのか?そう思ったこともなくはない。だが無論、テスタメントがそんなことをすることはありえない。 そんな卑怯な真似をしては自分を育ててくれた義父上に申し訳がたたない。 そう、テスタメントは思っていた。 ともあれこのまま手をこまねいているわけにはいかない。テスタメントは考えた。 もしも最強のギアであるソルの血を受けギアの母胎で育まれた子供が生まれたら、それはギアの純血種となるのではないか? そうしたらそれは次代のギアのリーダーとなり得るかもしれぬ。 テスタメントはもともと一介の志願兵で、ギア・プロジェクトに関する専門的知識などはない。彼が猫のごとき好奇心で以て、希望的観測に基づきギアの純血種を望んだとしても無理からぬことだった。 実はテスタメントは過去既にギアと遺伝子に関わる研究の被験体となっている。 テスタメントから採取した卵子(彼は男性の表現体と未発達の卵巣を持つ真性半陰陽である)を培養してジャスティスの染色体を挿入するというもので、交配というよりクローンに近い。 この時代になってもまだ人体を越える完全な人工子宮は存在せず、その卵(ラン)は着床を期待してテスタメントの腹腔内に戻された。 結論からいえばこの試みは失敗し、卵はテスタメントの体内で分解してしまった。 失敗の原因は解明されなかったが、この計画は思わぬ副産物を生じた。当時中級以下のギアだったテスタメントが、この実験後ギアとして進化の兆候をみせたのである。 分解した卵のなかのジャスティスの因子がテスタメントに吸収された結果と推測された。 その後ジャスティスの細胞をテスタメントに移植する実験が行われ、テスタメントは上級ギアに進化した。 母胎の精神状態が受精卵に与える影響を懸念され、クローン製造の母胎とされたことはテスタメントには知らされなかった。 進化のためにジャスティスの因子を組み込んだ、そうとのみテスタメントには伝えられてある。 *****************
必死の思いでテスタメントは奪われた子供を探そうとした。だがその後ジャスティス復活計画が佳境にさしかかり、彼の立場で生きている見込みの薄い子供の捜索は諦めざるをえなくなった。 子を奪われた怒り、憎しみ、そして悲しみは、テスタメントを苦しめ続けた。 そしてテスタメントはジャスティス復活の布石として開催された武道大会で再びソルにまみえた。 「私が今まで、何を思い生きていたか、オマエには判るまい!」 「貴様とて我々と同じギアだろうが!!」 「貴様を思うと心が渇く・・・!消えてなくなれ。」 その後ジャスティスは消滅し、テスタメントも洗脳の呪縛から解き放たれた。しかしテスタメントにとって自らがギアであるという事実は変わらなかった。 多くの人間を手に掛けたという罪の重さに苦しみながらも、死にきれずに彷徨うテスタメントの前にディズィ−ソルに殺されたと思っていたあのときの赤子が成長して現れた。 かつてはギアたることを望んでディズィを産んだが、洗脳が解けた今となってはディズィの異形の姿はテスタメントを打ちのめした。 まして己の手が血にまみれていることを思うと、無垢な彼女に出生の秘密を告げることはとうてい出来ない。 全てを胸に納め、母の無償の愛を以てテスタメントはディズィの騎士たることを誓った。 「これでもかつては騎士の端くれだったものだ。私の剣をあなたに捧げよう。」 全てを失ったと思っていたテスタメントだが、ディズィに出会って我が子を守るという新たな目的と義務を見いだした。そのため心ならずも彼は再び血の鎌を握る。 「私の魂のために死ね」 本来誰よりも暴力を嫌う彼にとってそれはとても辛い。 しかしディズィの手を血に染める位なら彼は喜んで修羅の道に堕ちる覚悟だ。 ディズィのために鬼子母神と化したテスタメントが殊更に偽悪的な言葉を吐くのは人を恐れさせるためだけではなく、自嘲の念も含まれているのか。 「じつにいい気分だ」 「貴様の血は格別だ」 しかしあろうことか、またもディズィを追ってテスタメントの前にソルが現れたのだ。 今度こそ子供を殺しに来たか、無事に成長したディズィの姿を目にしてソルへの復讐心もなくなっていたのに、そう思うとテスタメントの心は血の涙を流す。 「やっと……貴様を殺すのをあきらめたというのに。」 そして洗脳を受けていた過去と同じことを、再び彼は叫ぶ。 「貴様とて……貴様とてギアだろうが!」 テスタメントにとってソルとは何なのか、ソルにとってテスタメントとは・・・ 完全な人型を保っているギアは(羽根や尻尾のあるディズィは完全な人型とはいえないだろう)世界中でソルとテスタメントの二人しか確認されていない。 戦いの中でディズィは恐らく、ソルが自分の血縁たることを知ったであろう。 だが同時にジャスティス戦でディズィは不思議なことをくちばしっている。 「(なんだろう、この懐かしい気持ち……)」 ディズィのバトルスタイルはソルに似た部分があるが、同時に彼女はジャスティスと同じ名の技を使う。ジャスティスの因子はテスタメントを通してディズィに受け継がれたのかもしれない。願わくばそれが−−−。 テスタメントはこれから先もただ黙ってディズィのそばにいるのだろうか。 それもまた、彼の見いだした幸福か。 「(お前といると私ですら希望が持てる)」 「辛い旅になるぞ?」 「そんなに辛くありませんよ。」 「だって……。」 「友がいるなら、か……。」 いつか親の元から巣立つのが子であれば、テスタメントには友でいいのかもしれない。 永遠の命持つギアなればこそ・・・。 |
終 |
筆者追記 文中に「真性半陰陽」他の言葉で身体構造を形容する部分がありますが、これらはあくまで架空のキャラクターに向けられたフィクションであり、必ずしも正しい医学的知識に基づいたものではありません。また、特殊な身体症状に対する差別・揶揄を意図するものでは決してありません。どうぞ誤解なきようお願いします。 |